工芸的なるもの
序
私はこれから「工芸的なるもの」に就いて語ろう。如何なるものを指して
「工芸的」と呼ぶのであるか。どんな性質を有つ時、ものが「工芸的」とな
るか。謂わばものの工芸性とは何を意味するかを語ろうとするのである。こ
れはやがて「工芸とは何か」の問題に多くの暗示を与えるであろう。且つ美
とは何かという根本的な問いに対しても、極めて示唆深いものとなろう。
一
この真理を具体的に言い現すために、私は数個の卑近な比喩を取上げよう。
それも直接工芸の世界でないものから例を取ろう。そうして漸次に「工芸的
なるもの」の本質を明らかにしてゆこう。
今仮にバスに乗ったとする。そうして車掌に行く先を告げて、どこで降り
たら一番よいかを尋ねたとする。謂わば個人的な問いである。彼女は普通の
言葉で私に答える。それは並の会話に過ぎない。だが一旦与えられた公の任
務に戻る時、彼女は急に抑揚のある言葉遣いを始める。「お降りの方は御座
いませんか」とか、「曲がりますから御注意希います」とか、「次ストップ」
とか韻律的に言葉を使う。
読者よ、若しこの言葉の使い分けが反対であったとしたらどうであろう。
実に奇妙な応対になるではないか。畢竟この車掌は気が狂っているとするよ
り仕方がない。だが面白いことに車掌達は私達の目前で二種の言葉の使い分
けをする。或る時は普通の会話を、或る時は特別な音声を使う。そうして
「私」の場合と「公」の場合とにはっきりと区別をつける。
さて、この場合普通の言葉遣いに対して、抑揚のある言い廻しを、言葉の
「工芸的な使い方」と呼ぼう。私はこの意味を更に別の例で説いてゆこう。
二
トコヤ
理髪屋に行って髪を刈って貰う。聞こえるのは鋏の音に入れる調子である。
玄人に刈ってもらっている感じが起こる。線路工夫が二人三人掛声をして鶴
嘴を入れる。その動作が揃っていない時はない。否、揃えずば仕事をしない。
又仕事にはならない。銀行に行って金を受取る。掛りの人は目の前で手ぎわ
よく札を数える。そうして最後の一枚をポンとはねて終わる。これをやらな
いと数えにくいに違いない。否、勘定を間違えるかもしれぬ。仕事が玄人の
手に渡ると、それぞれにこんな特別な調子が出てくる。一寸考えると無駄の
ようだが、実はそれが一番無駄のないやり方である。かかる動作を私は「工
芸的なやり方」と名づけよう。落ちつく所に落ちついた形である。
三
垣根越しに飴屋が通る。下駄の歯入屋が通る、薬屋が通る、聞いていると
その掛声には一つの共通なものがある。普通の会話には無い言葉と調子とが
聞こえる。それがあればこそ物売りだということが分かる。彼等は言葉と声
とを「工芸化」している。そう呼んでよいと思う。
兵隊の教練を見る。誇張した足つきで歩調を揃える謂わば歩き方を「工芸
的」にやっているのである。若しそうしなかったら、教練は不可能になるで
あろう。たった二人で往来を歩くのですら、足を揃えずば歩きにくい。体操
だってそうである。手足の動作を一定の型に納めている。動作を基礎的なも
シコ
のへと帰している。相撲取りが土俵ぎわで四股を踏む。それには一定のやり
方がある。何れも筋肉の運動を「工芸的」にやっているのである。
そういう意味で、ものの工芸化は至る所に見られるではないか。骨牌に慣
れた人の札の切り方、肉屋の主人の包丁のこなし方、料理人の手さばき、手
品師の口上やその動作等々。皆それぞれに仕事が「工芸的な技」にまで達し
ている。そう私は形容したい。又他の例を選ぼう。
四
私共は毎日筆を執る。手紙を書き原稿を書く。誰がどう書くとも、その字
体は各個人の自由である。別に一定の約束はない。各々勝手に異なった字を
書くのである。だが人間は或る場合に妙な字を書く。不断の書体とは縁がな
い形を選ぶ。町を歩くと時々店開きに逢う。見ると壁に細長い紙を貼って、
品名やら値段を書きつけてある。字体を見ると特別な型を有った誇張した字
である。それはもう個人の字ではない。居並ぶ諸看板、芝居の外題、相撲の
番付、提灯の屋号、酒樽の商標、将棋の駒、浄瑠璃の台本等々、皆普通の字
体ではない。字が一つの型を生んでいる。私はかかる字体を「工芸的な字体」
と呼ぼう。字に工芸化が来る時、自から一つの式をとるからである。
だが特殊なこういう場合にのみ字が型をとるのではない。実に凡ての公な
字体は悉く同じ道を選んでいる。私共が日々読む本の活字、新聞の活字、古
くは木版本、西洋中世紀の写本類、何れも字体は型の字である。そこには個
人がない。字が公に備えられる時、自から個人を越えた型の字に入るのであ
る。ごくありふれているため、却って気付かないであろうが、現代に最も多
いあの明朝の字体、振り返って見ればいたく工芸的な字である。今最も多く
用いられているあの西洋の活字と並べてみると、如何にその間に近似した共
通の様式があるかに驚くであろう。太き縦の線、細き横の線、線の始めと終
わりとにある「あたり」、均齊の美、一定の秩序、それは全く様式化された
字体である。ここでは凡ての筆法が、型にまで納められている。如何に個人
の勝手な字とは異なるであろう。私はかかるものを「工芸化された書体」と
呼びたい。
古くは隷書がある。泉を周篆に発し、既に秦時代に作られたというが、漢
瓦などにもしばしば見るところである。あれは恐らく字体が充分に模様化さ
れたものの最初であろう。隷は従うとか属するとかいう意味で、隷書は法に
従う書体との義であろう。一つの字がなぜこのようなものに発展するのか。
そこには興味深い真理が潜む。これを裏からいうならば、なぜ個人の手に渡
ると字が型から離れてくづれるか。これ等の関係から吾々は多くの秘密を学
ぶことが出来よう。私は結論を急ぐ前に、もっと他の方向から「工芸的なる」
性質を眺めよう。
五
私はここで絵画の世界に入って工芸的なるものがあるかを吟味しよう。普
通絵画は美術の域に属して工芸と対立したものと考えられる。しかし若しこ
こに方式に入った絵、模様化された絵があるなら、私達はその発生や成熟に
於いて、工芸的なる性質を見ることが出来よう。なぜそれ等のものが普通の
絵画と異なるかを知るのは、「工芸的なるもの」を解する上に示唆が多い。
大体からいうと民画、即ち民衆的絵画は殆ど皆型の絵だと云ってよい。否、
型を執る故に民画となり得るのだと云った方が更によい。同じ絵画の中に入
れてはいるが、写実的な個人的な絵画と、模様的な様式的な民画とは、性質
が根本的に異なっている。
民画は個性に属する絵ではない。無銘が一つの特色である。それは様式の
絵である。誰が描くともさしたる違いはない。それは何枚も描かれる絵であ
る。誰でも携わり得る絵である。別に天才は要らない。職人であればよいの
である。安い絵だから略画になる。民画にはいつも単純化が見える。だから
必然に一つの模様に納まってくる。絵が公衆を相手にしてくると、自から公
な型の絵になる。
民画の代表的な大津絵を執ってこよう。写実性から離れ、凡ての構図や線
や色が単純化され、一定の類型に納まっている。そこには画題さえ決まって
いる。この型があればこそ大津絵があるのである。それは只の絵ではない、
「工芸化された絵」なのである。そう見ずしては解くことの出来ない絵であ
る。
例えば小絵馬とか泥絵のようなものを取ってきてもそうである。あの泥絵
にある建物を見られよ。それがどんな建物であろうと一つの平均した様式に
還元されている。恐らく描く筆の順序、色の差し方、画題そのもの、皆次第
が定まっているのである。そうしてその手つきすら型に入っているに違いな
い。早く描かれるそれ等の絵には、仕事ぶりから作物に至るまで一つの韻律
があり法があるのである。かくなった時、私はそれを「工芸化された仕事」
と呼ぼう。民画に一人はない。様式に従う民衆があるのである。如何に個性
の絵とは異なるであろう。
例えば初期の肉筆浮世絵もそうである。鳥居派の如きいたく絵が工芸的で
ある。絵が煎じつめられ、模様化され、定まった様式にまで達している。鳥
居派の絵は様式の絵である。元来公な看板絵として発達したからである。芝
居の特別な文字も同じ要求から出ている。
これ等の民画のみではない。個人からではなく、時代から生まれる絵画は
多くはこの道を選ぶ。古代の宗教画は仏教のものにせよ。基督教のものにせ
よ、殆ど凡てが型の絵画であった。そこには構図に至るまで法則が決められ
ていたのである。敬虔深い時代では、そのことへの忠順のみが、宗教画を産
んだのである。しかもそれは拘束ではなく、いつもそこに深々した内容が盛
られた。
何も宗教画ばかりではない。例を支那の古画にとってもよい。敦煌や正倉
院のものに、唐代の所謂「樹下美人」の画が残る。あれを見ると全く一様式
の図であって何れも個人の筆ではないことが分かる。誰が何処で描くとも当
時は好んで美人をかくの如く写したのである。絵のみではなく、土偶に於い
ても同じ様式を守っている。しかもその中に醜い物があったろうか。私はそ
ういう非個人的な一定の様式に納まった美を、「工芸的な美」と名づけよう。
所謂美術に見られる美とは性質が違うからである。
六
このことは彫刻に於いても同じである。有名な御物に「四十八体仏」と呼
ばれる小さな金銅仏がある。推古のもので、もとは法隆寺にあったのだと云
われる。あれを見ると如何に時代の作だかということが分かる。そこに孤立
した個性の表現はない。誰がどう作ろうと、その当時はかかる様式に帰って
いったのである。なぜなら信仰の強かった時代であるから、個性を言い張る
者はなかったのである。六朝仏にはとりわけ立体と線との単純化がある。何
れにも模様化があり、型に納まり、殆ど幾つかの直線の要素に還っている。
私はかかる時代の作を、多分に「工芸性」を含んだ作と呼ぼう。それは様式
の彫刻である。
私は例を西洋にとろう。六朝仏を髣髴せしめるものはロマネスクの聖像で
ある。信仰に支えられた時代の雰囲気が互いに酷似しているからであろう。
伽藍に近づくと入口の周囲から内陣の各部に至るまで数多くの聖像が居並ぶ。
作を見ると如何に「四十八体仏」などと様式に共通があるかに驚くであろう。
何れも所謂非合理的な非写実的な彫刻である。だが活きている。実に美しい。
立体を能う限りの少ない面に切りつめて、凡てを模様化している。ここでも
どんなに直線的な要素が多いことか。そうして遂には類型美にまで達してい
る。当時の凡ての個人が従属した様式の世界が示されている。私はかかる彫
刻を「工芸的」という形容詞で呼ぼう。かく呼ぶことによってその特質を一
層明らかになし得るからである。それは近代の個人的彫刻とは範疇を異にす
る。
私は又あの伎楽面を想う。人間の面貌を一つの型に工芸化する時、面が生
まれるのだと云えないであろうか。只の写実ではない。だがどんな人間の顔
メン
も、あの面以上に人間の顔ではあり得ない。それは人間のそれぞれの顔貌を
代表する。
私は全く異なった領域に更にその性質を探ろう。
七
宗教はそれが如何なるものであろうとも儀式に進む。儀式を只形式と思う
人があるが、浅い見方に過ぎない。それは神を讃え神に感謝する人間の心情
の結晶である。祭典以上に厳そかに神事を行うことは出来ない。儀式は宗教
生活の典型である。それは信仰の儀式である。それは宗教的表情の模様化で
ある。一つの韻律である。儀式には必然音楽が伴う。音楽がそのまま儀式で
ある。祭礼は「神事の工芸化」である。あのカトリックのミサは立派な工芸
である。大なる模様である。それは讃美と感謝とが典型にまで達した姿であ
る。何故カトリックで典礼を重んずるか、その理由がよく読める。リタージー
は信仰の工芸化である。
仏教の諸儀式に於ける皆同じである。修業に念誦に又供養に凡て儀軌を守
る。儀軌は則るべき宗教生活の範疇である。宗教が個人を越えて宗団に入る
時、何故儀式が招かれるかは必然以上の必然である。若しそれがなかったら、
秩序ある宗教的団体は成り立たない。儀式のない宗教は未だなまである。未
だ個人的である。
祈祷は神と霊との会話である。だが信徒の前で行う牧師の祈りは一つの調
子にまで高められる。私はそれを再び「工芸化せられた祈り」と云おう。詩
編の朗読は自から賛歌に転ずる。私はそこにも工芸化された朗読をみる。宗
教的音楽として最も荘厳なグレゴリアン・チャントは、抑揚あるレシタティー
ヴだとも云える。神に献げる声が帰するところ、自から韻律的な叫びに至る
のである。私はその賛歌を最も「工芸的な音楽」だと云おう。
僧侶の読経とてもそうである。不思議なその音声と抑揚とには、朗読の必
然な帰趣を見ることが出来る。若し読経が音調を失ったら僧侶の読経にはな
らないであろう。私はそこに「工芸化された読み方」を想う。あの説教さえ
も真宗に於いては立派な型をとる。親鸞上人の御一代とその法教とを、かく
ワザ
の如くに大衆へ訴えしむるものはない。それは一つの術であり、術に達した
教えである。そこには説法の極めて見事な工芸化がある。真宗は大衆への福
音である。個人の宗教ではない。ここに工芸的なる形が要求される所以であ
る。
あの叡山で五年目毎に行われる天台宗の論議を見よ。試験の問答をすら節
付けして行うではないか。その折只の会話は許されていない。謂わば「問答
の工芸化」である。
八
何も宗教に於いてのみではない。他の世界に於いても同じである。私は好
個の例として茶道を選んでこよう。人も知る通り茶道は茶礼である。茶法な
き処に茶道はない。「茶」は自から一定の儀式を招いてくる。しばしば人は
儀式を只形式に解し約束に解する。そうして儀式を不自由なものに過ぎぬと
説く。だがそれは儀式の真意を見誤るが故に、形式以上のものが見えないの
である。「茶」の法式は「茶」の精神の表現である。それ以上簡潔に、茶の
精神を動作に現すことは出来ない。それを形式に堕せしめるのは、既に精神
を欠くからだと云わねばならぬ。作法に入って「茶」は始めて自由である。
否、最も自由な自然な道に帰る時、それは法以外のことを示さないのである。
ここに儀式の秘義が潜んでいる。「茶」の作法は最も単純化された動作であ
る。凡てが切りつめられ、なくてはならぬものが残った時、型が生まれるの
である。無駄のない所まで至り尽くす時、法が現れるのである。それは一切
の複雑を摂取した単純である。内容に充ちずして法式は出てこない。どんな
茶人がどのように動作しても、結局落ちつく所の最後の動作、それが「茶」
に示される礼法である。茶礼は動作の模様化である。「茶」の美は工芸の領
域に属する。室に、器物に、振舞に、庭の配置に、工芸化が来らずして茶道
はない。
花道もまたそうではないか。活花とは与えられた自然の花や枝や葉が一つ
の型をとる場合である。その型を私は再び「工芸化されたもの」と呼ぼう。
それは花を不自然にすることではない。よく活けられた花は、花を更に花に
する。否、私達は活花に於いてより、もっと美しく花を見ることは出来ない。
少なくともそこまで至ったものにして、始めて花道である。近時投入れなる
ものが流行する。自由を標榜するためか、それはまだ型にまで熟し切ってい
ない。若しそこに充分な工芸化が来ないなら、一つの邪道であるに過ぎない。
型以上に活きた姿はないからである。尤も形から花を活ける遠州流の如きも
のは、とかく死型に陥りがちである。ここにも邪道があるのは言うを俟たな
い。型は内から必然に湧き上がるものでなければならない。自然の花が更に
模様の美に深まったものが活花である。西洋にかかる工芸化された花道はな
い。
九
私は例を又「能」に取ろう。一つの舞踊が煎じつめられ、最も模様化され
ると「能」が生まれる。あの最小の動作で最大の動作を示す「能」が生まれ
る。そこには素晴らしい美の結晶がある。無益なるものはここでは許されて
いない。無駄が残るならもともと「能」にはならない。なぜ「能」は伝統的
か、なぜ伝統をよく守った「能」の方に重味があり渋味があるか。それは型
にまで至り得たものだからである。それは法則の芸である。もはやくづすこ
との出来ない規範があるからである。型を守る時不自由になるのではない。
型に入って一番自由に「能」が舞えるのである。「能」はあらゆる舞踊のう
ち恐らく最も工芸的なものである。西洋の舞踊はまだあそこまで凝結してい
ない。動静一如の法からは遠い。動が余り過ぎている。もっと静に在って動
が出る筈である。否、静に交わらずば真の動はない筈である。「能」はその
点で至る所まで至った芸である。そこには則るべき型がある。かかるものを
私は「工芸的なる芸」と呼ぼう。
恐らく日本の歌舞伎劇の如きも、型の芸としては最も興味深いものの一つ
と云えよう。言葉から振りから衣裳に至るまで、乱してはならない秩序があ
る。近代の眼からすれば、そこに思想的倦怠を感ずるかも知れぬ。併し優に
一つの芸に達した芝居である。既に工芸化されたものに成り切っている。思
想から起こった近代のものには、しばしば芸への無視がある。だから工芸化
に達していない。まだ熟し切らない証拠である。
私は歌舞伎にも増して人形芝居を好む。あれほど印象深いものは少ない。
人間の動作が結晶されて人形になったのである。あの人形以上に簡潔に活々
した動作をすることは人間にはむづかしい。人形は人間以上の所作をする。
それ故遂には人間が人形の所作をさえ真似するに至ったではないか。人形芝
居は人間の芝居を更に工芸化したものである。そう呼ぶべきではないか。
十
同じく型の芸として私は義太夫を挙げよう。思えば不思議な世界に発達し
たものである。それはあの浄瑠璃本の字体の如く見事な型を示している。元
来それは朗読から発したものであろう。併し内容は読み方に自から抑揚を与
える。強むべき所、弱むべき所、急ぐ所、穏やかな所、悲しい所、嬉しい所、
場面は様々に回転する。朗読から朗詠に移り、義太夫に転ずるところ、そこ
には必然さがあるのである。私達は「詠ずること」以上に「読むこと」を現
すことは出来ない。なぜなら朗読がそこに最も濃く煮つめられているからで
ある。朗読が模様化され、一つの型にまで進んだものが義太夫である。それ
は「工芸化された読み方」に外ならない。
カミシモ
話はそれるが義太夫語りや三味線弾きが着る上下。公な場所に出て容儀を
正して演ずる折り、なくてならないその上下。着物にまでも工芸化が見られ
るではないか。処の東西を問わず礼儀は衣服を工芸化する。吾々の袴の如き
も直線によって強められ模様化された形である。あの不思議な西洋の燕尾服
の如きも発達に同じ経路が読める。人間は公な場所に出る時、不断とは違う
姿をする。
十一
私は又全く異なった領域でこの真理を探ろう。驚嘆すべきは日本で発達し
た相撲である。こんなにも見事に「工芸化された競技」はない。多くの人は
相撲の勝負を語るが、その形態美に就いて語らないのが不思議である。元来
御前競技の性質があったためか、相撲は礼法の相撲に達し、之がどこまでも
型に熟することを求めた。それは個人の勝手な競技たるを許さない。凡ては
法を踏む競技である。なぜ相撲取が揃いの髷を結うか。個人の姿では法と離
れるからである。能役者が面を用いるのも同じ意味があろう。表情が個人を
シメ
越えることを求めるからである。相撲は公の技を行う姿なのである。あの締
コミ バレン
込の装飾的な結び方、それでもまだ足らずして、見事な馬簾で飾る。その馬
簾の垂れ紐を直線にし、花のように開かせる。あの横綱の化粧廻し、如何に
フサ
力士を装飾的な姿に仕立てることか。行司の衣裳、その軍配や紫の總。そん
シコ
な身形のことばかりではない。四股の踏み方、身の構え方、凡て型があるで
はないか。呼出奴の「ひがしい」「にいしい」という声、「片や何々」「こ
なた何々」という呼び方、皆特別な調子である。行司が間を入れて「双方見
合って」とか「八卦よい、のこった」というあの言葉使い、凡てが伝統の言
い廻しを守って崩さない。取り方だとて四十八手の型を定めるではないか。
始めから終わりまで法による競技である。一切に模様の美があるとそう云え
ないであろうか。そうしてこの技典は、花々しい三役の式で千秋楽となって
閉ぢる。こんなにまで美と結合した競技が世界のどこにあろうか。それは只
動作の美とか、筋肉の美とかいうぐらいのことではない。それは装飾的芸道
にまで達しているのである。相撲の美は工芸美である。
十二
思い出されるのは武術である。誰も知る通り剣道や柔道にも「型」なるも
のがある。打つ、切る、突く、投げる、倒す、抑える。それ等の動作が一番
無駄無く急所を捕らえたものとなる時、一つの法式に入るのである。「それ
は法に適っている」と人はよく云う。法に適うとは型が守られた時である。
型に則る時、範に交わる時、術は至り尽くすのである。否、至り尽くしたも
のは自から型を現すのである。武術の型は武的動作の精華である。私は再び
それを「工芸化された動作」と呼ぼう。帰する所に帰した形である。如何な
る動作をするとも、畢竟そこへ戻ってくるのである。型には必然さがある、
無理がない。それは決して窮屈な規則ではない。死んだ形骸ではない。型以
上に活きたものはない。
同じように碁や将棋に定石なるものがある。定石は指し方の工芸化である。
なぜならそれが一番必然な最後の最も早い筋道だからである。それに依らな
い指し方は常にくづれる。定石は私の道ではない。凡ての者が守らねばなら
ぬ定法である。定石は公法である。
十三
文学に於いても同じことが云えよう。よき文章と呼ばれるものには、一定
の法が流れていると云えよう。言葉のまだなまなもの、無駄の多いもの、不
明瞭なもの、それは文章らしき文章とは云えない。洗練されたもの、簡潔な
もの、含蓄のあるもの、それはやがて法に熟する。それを模様のような文学
と呼べるであろう。文学を法にまで高めることが文学者の目途であり、又文
学に法を見出すことが文学史家の仕事である。
散文が一つの法に近づいて、簡潔な一定の形をとる時、詩が生まれると見
做すことも出来よう。詩形は模様化された文学とも云える。詩は常に型を執
り韻律を呼ぶ。日本で発達した俳句の如き、私はそれを最も顕著な文章の工
芸化と見たい。萬語を十七字に摂取して意を尽くすところ、正に文学の模様
化である。かくまで単純化された文学は他にはない。不思議であるが十七字
は一つの制限ではない。俳句に於いてほど自由に言葉を現すことは遂に出来
ない。俳句は私達の云えないことまで云う。法に入る時人は無限の自由を得
るのである。
「万葉」は大和の歌として最も美しいと誰もが云う。だがなぜ美しいのか。
どうして美しい歌となったのか。今は言葉だけで「万葉」を味わうが、しか
し元来は朗詠を伴わずして生まれた和歌ではあるまい。否、舞踊さえ伴って
生まれた和歌であるに違いない。琉球の「おもろ草紙」などの活きた例を見
ると「万葉」の美は、只言葉の推敲から生まれた歌ではなく、必ずや音楽と
踊と言葉とが未だ分かれない以前のものであろう。そうしてこれ等の結合が
「万葉」を一段と深い韻律に導いたのである。韻律は凡てのものを工芸化す
る。模様化する。「万葉」を最も優れた意味でのデコラティーヴな文学と云
えないであろうか。模様的な和歌だとは云えないであろうか。「万葉」の美
の秘密はここにあると想える。それは丁度、彫刻で「四十八体仏」が美しい
のと酷似する。
十四
科学者は彼の学問の帰趨を常に法則に向ける。法則を示し得ない学問は学
問でなく、学問にならない。自然法は謂わば知識の模様化である。なぜなら
万象の精華を抽象し来って簡潔な法式に要約したものだからである。或る学
者は法則を思想の経済化と見た。私は自然法に於いて科学の工芸化を感ずる。
否、工芸化された科学的知識を、私達は自然法と呼ぶのである。法則に於い
て科学は最も美しい。それは数理である、秩序である。整理されないなまの
知識は科学にはならない。自然法はどこまでも公式である。科学は知識に於
いて自然を工芸化する。
十五
恐らく一つの社会をとって来てもそうであろう。秩序なき社会は乱れた社
会である。秩序の有無、組織の正邪によって大衆の幸福は左右される。生活
が法に適う時、又は生活に適う法がしかれる時、社会はその位置を高上する。
一切の人事が公な協存的様式にまで進んだ時、即ち超個人的なものにまで進
み得た時、平和が社会に結ばれるのである。若し個人が彼の利己心に於いて
秩序を破るなら、社会は乱れ大衆は苦しみに陥るであろう。整頓せられた社
会は幸福を保障する。かかる秩序は個人の自由以上の仕事をする。私はかか
る組織立てられた社会を「工芸化された社会」と呼ぼう。不思議にもそれの
みが各個人を最も活かすのである。組織を無視する個人主義は却って個人を
破壊する。秩序が忽ち失われるからである。
生物界に於いては本能が凡てを守る。本能を生活に工芸化と云えないであ
ろうか。本能は彼等にとっては欠くべからざる秩序である。生活が依って立
つ基礎である。それを破るものは生命を失う。万物の形態、動作、凡て法を
離れない。蜘蛛の網を見、蜂の巣を見る。工芸的ではないか。よく均等を保っ
た模様である。何も勝手に無秩序に作るのではない。一様式があるのである。
植物の葉を見、花を見る。又は雪の結晶を見る。そこにも均斉の美があるで
はないか。定められた形があるのである。自然にも模様化への意志が見える。
自然は秩序に活きる。そうして法を破るものには生命を許さない。
跋
私は既に幾多の例証を挙げた。そうして「工芸的なるもの」の姿を漸次に
カミ シモ
描き出した。上僧侶の読経から、下豆腐屋の掛声に至るまで、そこにはいつ
も型の世界が現れている。私はこれ等の様々な姿を通し、今や一つの結論に
導かれてきたのである。これによって工芸問題への意味深き示唆を得ようと
するのである。
さて、私達はこれ等の例から何を帰納し得るか。それ等のものに見出され
る共通の性質は何であるか。私はそれを次のように列挙しよう。
一、ものは如何なる場合に工芸的なものとなるか。私達はそれが公の世界
に入る時現れるのを見るであろう。例えば一つの字体が工芸化されるのは、
私の字に止まる時ではない。広く一般に読まれる時、字体に工芸化が現れる
のである。言い換えれば共通なるものに達する時、ものに工芸的なる性質が
要求される。それは既に誰のものでもなく、凡ての者の所有である。
これを裏から云えば、「私」の世界を越えた時、工芸的な世界が来るので
ある。私的なものには未だこの特質はない。あの抑揚のある読経の調は、仏
の前で門徒の前で声高く読まれるのである。工芸的なるものには私がない。
私の限界を越える時、その性質が招かれるのである。工芸的なるものは常に
公である。
一、公は共有である。共有なる故、それは型の世界に入る。それ故工芸的
なるものは掟の姿をとってくる。ここに型とは一般が依るべき標式である。
例えば茶道の如き、好個の例であろう。型は法則である。則るべき龜鑑であ
る。この型にまで進まないものは未だ充分に工芸的ではない。卑近な例で云
えば、かけ声が型に入ればこそ、始めて物売りの声となるではないか。
一、型は従うべき法である。工芸的なる性質が伝統としばしば結び合うの
はそのためである。法は伝え守らるべき権威を有つからである。祭典は宗教
的動作の工芸化である。若し吾々がその伝統的性質を無視するとしたら、儀
式は忽ち崩壊する。それは守られる故によく働くのである。伝統は拘束では
ない。この場合宗団が依って立つ基礎である。この基礎なくして宗教の自由
な発展はない。凡ての工芸的なるものは自から伝統と深い関係に入る。
一、型はものの精である。法則はものが一つの式に単純化されたものであ
る。無益なるものを棄て去り、ものの精華のみが抽き出された姿である。な
くてならないものの結晶である。能楽の如き最も少ない動作に最も多い動作
を含めたものである。私達はかかる単純なもの以上に複雑なものを現すこと
は出来ない。かかる元に還ったものを工芸的なものと云いたい。無駄が残る
間は、まだ充分に工芸的ではない。
一、それは一つの韻律である。凡て工芸的なるものは韻律的だと云ってよ
い。韻律的なものが一番なだらかな自然な状態である。ものが整った調子に
入る意味がある。儀式が音楽を伴うのは必然である。朗読が工芸化する時、
朗詠に入り音曲に進むのである。他の言葉で云えばものが数的関係に入るの
である。工芸的なるものは秩序的である。秩序が重要な性質である。
一、それは整理されたものである。なまのままでは、まだ工芸的ではない。
ぢかのものは素材に過ぎなく、そのままでは工芸的なものとならない。かか
る意味でそれは写実的ではなく、象徴的だと云ってよい。与えられたものが
篩にかけられ、選択せられ、本質的なものが引き出されて、始めて工芸化が
あるのである。それは現実的なものではない。併し現実以上に真実である。
伎楽面は非写実的であるが、而もあれ以上に写実的なものはない。真に迫っ
ているではないか。なまのままではこの真実は出ない。
一、私はしばしば「工芸化」なる言葉を「模様化」なる言葉と置き換えて
きた。模様とは複雑な現実の姿を、単純な形に還元したものである。これを
圧搾した形と云ってもよい。謂わば与えられたものが、なまの状態から煮つ
まったものに変わるのである。引きしめた、煎じつめたものが模様である。
それ故私達は模様以上に強く現実の美を見ることは出来ない。私達はそれよ
り味わいを濃く味わうことは出来ない。浄瑠璃本の字体は字の模様化である。
同じように定石は駒のさばきの模様化である。工芸的なるものの姿は絵画で
はなく模様である。それ故工芸的なる絵画には模様化がある。初期大津絵の
如き適例ではないか。なまのものは未だ模様になっていない。工芸と模様と
は切り離すことが出来ない。
一、従って工芸的なものは一つの芸に達したものである。ものがこなされ
ない限り工芸にはならない。それは一度濾過されたものである。鎔爐に入っ
ソシャク
て鍛錬されたものである。ものがよく咀嚼され消化されて始めてその域に達
するのである。手慣れないものは常に危なげである。ここで芸とは何も器用
事という意味ではない。又知識や思想のみでも芸にはならない。仕事に即し
て芸が出るのである。そこには修業と訓練とが要る。熟したもののみ工芸的
なものになるのである。
一、言い換えれば一つの仕事を工芸的なものになし得るのは玄人のみであ
る。素人である限り充分な工芸化はない。それは丁度幼児の歩き方のように
ぎごちない。至る所まで至っていないからである。仕事は専門家を求める。
身を打ち込まずして何ものも成就されない。工芸的なものは本来職能的であ
る。その美しさは一日では出来ない。職人は美の世界で大きな働きをする。
私はここで「工芸的なるもの」に対する私の観察と叙述とを終わろう。こ
れ等の性質は「工芸とは何か」の問題に対して、多くの光を投げる。そうし
て更に「工芸的なること」と、ものの「美しさ」との間に如何に固い結縁が
あるかを暗示してくれる。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『工芸』 8号 昭和6年6月】
(出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)
(EOF)
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